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第189回国会 憲法審査会 第3号(平成27年6月4日(木曜日))での長谷部恭男早稲田大学法学学術院教授の発言

長谷部参考人 本日は、このような形で発言の機会を与えていただきまして、本当にありがとうございます。

 本日は、主に立憲主義についてお話を申し上げようと思います。

 立憲主義という言葉は、いろいろな意味で用いられますが、大きく広い意味と狭い意味を区別することができます。

 広い意味の立憲主義、これは、政治権力を何らかの形で制限する考え方、これを広く指して用います。例えば、中世のヨーロッパにも立憲主義があった、そう言われるときには、この意味で立憲主義という言葉が使われております。


 中世のヨーロッパでは、当時の支配的な宗教であり世界観であるキリスト教に基づきまして、何が正しい生き方かがあらゆる人にとって決まっておりました。為政者についても当然、政治権力の正しい行使の仕方が決まっています。そして、それに違反をすれば、教会を破門され、臣下の服従義務は解かれる、そうしたリスクにさらされておりました。

 また、ローマ教皇についても、彼が異端の思想に染まったときは、全クリスチャンの代表から成る公会議によって、あるいはさらに公会議を代表する枢機卿会議によって教皇がその地位を追われる、それもあり得ると考えられておりましたし、実際、コンスタンツの公会議におきましては、教会を分裂させた三人の教皇を廃位いたしまして、新たな教皇を選出しております。

 キリスト教という一元的な思想そして世界観に基づいて、政治権力も制限されていたわけです。

 他方、現在、日本を含めた先進諸国で共通に立憲主義として理解されておりますのは、狭い意味の立憲主義です。これは近代立憲主義とも言われ、近代初めのヨーロッパで確立した考え方です。

 当時のヨーロッパは、一方では、宗教改革後の激烈な宗派間の対立を経験し、他方では、大航海時代でもありましたために世界各地で多様な暮らしぶりや考え方に出会った経験から、人にとっての生き方や世界の意味づけ方、これはただ一つには決まっていない、多様な、相互に両立し得ない価値観、世界観があるのだ、そのことを事実として認めざるを得ない状況に置かれておりました。

 宗派間の対立をとってみますと、プロテスタントにしろ、カトリックにしろ、それを信仰する人にとっては、自分にとっての正しい生き方、世界の正しい意味づけ方を教えてくれる大事な、かけがえのないものであります。そうである以上、自分だけではなく、ほかの人も全て信じてしかるべきだと考えるのが人としての自然の傾向でありますが、ただ、その自然の傾向のままに、各自にとっての正しい信仰をほかの人に押しつけよう、押しつけようとしますと、そうすると、ここに深刻な対立が起こります。現在でも、世界の各地におきまして、何が正しい信仰であるか、それがもとになって大変に激しい紛争が起こっていることは、御承知のとおりであります。

 これに対しまして、近代立憲主義は、価値観や世界観は人によってさまざまである、これを正面から認めるべきだ、そういう認識から出発をいたします。多様な価値観、世界観について、いずれがより正しいかを議論しても意味がありません。客観的に比較する物差しがそもそもそこにはないからであります。むしろ、どのような世界観、人生観を持つ人であろうと人間らしい平和な社会生活を送ることができるようにするためには、どのような社会のあり方を基本とすべきか、それをまず考えるべきだということになります。ホッブズ、ロック、ルソー、カントといった近代立憲主義の基礎を築いた政治思想家たちは、いずれも、この問題に回答しようとした人たちであります。

 近代立憲主義は、そうした社会生活の基本的な枠組みといたしまして、公と私とを区分することを提案します。

 私の領域におきましては、各自がそれぞれ、自分が正しいと思う世界観に従って生きる自由が保障されます。志を同じくする仲間や家族と生きる自由も保障されます。

 他方で、社会全体の共通の利益にかかわる公の領域におきましては、各人が抱いている世界観はひとまず脇に置いて、どのような世界観を抱いている人であっても人間らしい社会生活の便宜を享受するためには何が必要なのか、各自がどのようにコストを負担すれば公平な負担と言えるのか、それを落ちついて理性的に話し合い、決定をしていく必要がございます。

 日本国憲法もそうですが、近代立憲主義に立脚する国々の憲法、これは、基本権、憲法上の権利を保障する条項を定めていることが普通です。それらは、一方では、私の領域におきまして、それぞれの人がみずからの信ずる宗教を奉じ、各自が正しいと考えることを表現し、プライバシーの守られる空間でみずからの財産を使いながら生きる自由を保障します。自由な私の領域を確保するためのさまざまな権利が保障されております。

 他方で、報道の自由、取材の自由、結社の自由、参政権等、主に公の領域におきまして、社会全体の利益を効果的に実現するために何が必要か、それを理性的に審議し、決定するために保障されているさまざまな権利もあります。そうした権利に支えられた民主政治の具体のプロセスについて定める統治機構に関する規定ももちろん備えられております。

 こうした近代立憲主義に立脚する憲法、これは、通常の法律に比べますと変更することが難しくなっていること、つまり硬性憲法であることがこれまた通常でございます。今述べました基本的人権を保障する諸条項、民主政治の根幹にかかわる規定、これは、政治の世界におきまして、選挙のたびに起こり得る多数派、少数派の変転や、たまたま政府のトップである政治家の方がどのような考え方をするか、そういったものとは切り離されるべきだから、つまり、その社会の全てのメンバーが中長期的に守っていくべき基本原則だからというのがその理由であります。

 また、憲法の改正が難しくなっている背景には、人間の判断力に関するある種悲観的な見方があると言ってもよろしいでありましょう。人間というのは、とかく感情や短期的な利害にとらわれがちで、そのために、中長期的に見たときには合理的とは言いがたい、自分たちの利益に反する判断を下すことが間々あります。ですから、国の根本原理を変えようというときは、本当にそれが、将来生まれてくる世代も含めまして、我々の利益に本当につながるのか、国民全体を巻き込んで改めて議論し、考えるべきだということになります。それを可能とするために、憲法の改正は難しくなっております。さらに、改正を難しくするだけではなく、国政の実際においても憲法の内容が遵守され具体化されていくよう、多くの国々では違憲審査制度が定められております。

 近代立憲主義の内容とされる基本的人権の保障、そして民主的な政治運営は、時に普遍的な理念、普遍的な価値だと言われることがあります。

 ここで、普遍的というのが、世界の全ての国が大昔から現在に至るまで、全てこの近代立憲主義の理念に沿って運営されてきた、そういう意味であれば、これは正しい言い方ではございません。実際には、現在でさえ、こうした理念にのっとって国政が運営されているとは言いがたい国は少なからずございます。また、日本も、第二次世界大戦の終結に至るまでは、この近代立憲主義に基づく国家とは言いがたい国でありました。

 さらに、民主主義について申しますと、十九世紀に至るまでは、民主主義はマイナスのシンボルではあっても、プラスのイメージで捉えられることはまずなかったと言ってよろしいでありましょう。それでも、現在では、基本的人権の保障や民主的な政治運営は普遍的に受け入れられるべきものとされております。

 ただ、問題は、憲法典の中に基本的人権を保障する条項、民主的な政治制度を定める条項が含まれているか否か、それには限られておりません。これらの条項の前提となる認識、つまり、この世には、人としての正しい生き方、あるいは世界の意味や宇宙の意味について、相互に両立し得ない多様な立場があるということを認め、異なる立場に立つ人々を公平に扱う用意があるか、それこそが、実は普遍的な理念に忠実であるか否かを決していると言うことができます。

 そして、近代立憲主義の理念に忠実であろうとする限り、たとえ憲法改正の手続を経たとしても、この理念に反する憲法の改正を行うことは許されない、つまり改正には限界があるということになります。

 ただ、近代立憲主義の理念に立脚する国々も、各国固有の理念や制度を憲法によって保障していることがあります。日本の場合でいえば、天皇制や徹底した平和主義がこれに当たるでありましょう。こうしたそれぞれの国の固有の理念や制度も、その時々の政治的多数派、少数派の移り変わりによっては動かすべきではないからこそ、憲法に書き込まれているということになります。

 もっとも、これら国によって異なる理念や制度は、普遍的な近代立憲主義の理念と両立し得る範囲内にとどまっている必要があります。つまり、特定の人生観や宇宙観を押しつけるようなことは、近代立憲主義のもとでは、憲法に基づいても認められないということになります。

 憲法を保障するという言葉もいろいろな意味で使われることがございますが、現在の日本で申しますと、価値観や世界観、これは人によってさまざまである、しかし、そうした違いにもかかわらず、お互いの立場に寛容な、人間らしい暮らしのできる公平な社会生活を営もうとする、そうした近代立憲主義の理念を守るということ、そして憲法に書き込まれた日本固有の理念や制度を守り続ける、それが憲法を保障することのまずは出発点だということになるでありましょう。
 まことに雑駁な話でございますが、以上で、立憲主義に関する私の説明を終わらせていただきます。

長谷部参考人 御指摘の、日本国民の総意に基づくというその文言ですが、これは日本国憲法の第一条、天皇の地位は主権の存する日本国民の総意に基づく、この点を御指摘のところなんだろうと思います。

 この文言はその言葉どおりに受け取ることができるものでございまして、天皇というのは日本国の象徴である。象徴というのは、言ってみれば、国という、これは先ほど小林先生もおっしゃったとおりで、いわば一種の約束事で、抽象的な存在でございますので、ただ、その抽象的な存在をわかりやすく理解するために具体的な何かシンボルが必要で、それが現在は天皇である、そのことを示しているわけです。

 何か具体的な人が、天皇が日本という抽象的な存在のシンボルであるかどうかというのは、それはとりもなおさず、多くの人々、まさに多くの日本国民がそのように考えているかどうか、そのことに基づいている、そのことを素直に言っているということでございまして、天皇が日本国の象徴である、その地位は主権の存する日本国民の総意に基づいている、そのことをまさに正しく述べていることだろうと思います。

 それから、ついでに申し上げますと、憲法の制定の経緯について情報が余り外に漏れないようになっていたというのは、これはいろいろな国の憲法についてある話でございます。

 例えば、アメリカ合衆国憲法。アメリカ合衆国憲法の制定の経緯がどのようなものであったのかということは、これは実は、マディソンという、この人も、大統領も務めた、そして憲法制定の経緯にも主要な役割を演じて携わった方ですけれども、この人のとったメモが実は頼りでありまして、かつ、マディソンのとったメモというのは、マディソンが亡くなるまでは公開をされておりませんでした。したがいまして、アメリカ合衆国憲法の制定の経緯がどういうものであったのかというのは、制定以降、非常に長期の間、公開されていなかったわけですね。

 ただ、そのことと、現在のアメリカ合衆国憲法が正統なものとして多くの人に受け入れられているか、あるいは内容が正統なものだというふうに評価されているか、それは全く別のレベルのものではないかというふうに私は受け取っております。

長谷部参考人 どうもありがとうございます。

 御案内のとおり、日本国憲法の第九条というのは、およそ戦争はしない、武力の行使はしない、武力による威嚇はしない、そして、戦力と言い得るようなそういった制度は保持をしないということを文言上は言っております。

 ただ、さはさりながら、国民の生命、財産、安全を保持するというのは、これは政府としての最低限の任務でございますから、その観点からいたしまして、先ほど小林先生も御指摘のとおり、個別的な自衛権だけは、それもまた必要最小限度、比例性原則の範囲内においてのみ行使できるということになっております。

 このような憲法原則をとっている国、これはやはり類を見ないものでございまして、日本固有のものであろうかというふうに考えております。

長谷部参考人 九十六条、各院総議員の三分の二の同意を得て発議するという、この条件はとても厳しいという議論はよくございます。よくございますが、ただ一方で、例えば衆議院に関して申しますと、相当部分の国会議員の先生方は小選挙区制で選出されるということもやはり注目をする必要がございます。

 と申しますのも、済みません、これは頭の体操のような算数で申しわけないんですけれども、例えば、今、八十一人しか国民がいない、そういう小さな国があったとして、全体が九つの選挙区に分かれている、九つの選挙区がそれぞれ一人ずつの国会議員を小選挙区制で選出するということになっているとすると、三分の二は九人のうちの六人ですね。六人を選出しようと思うと、それぞれ九人の有権者がいるわけですけれども、五人いれば過半数がとれます。ですので、九分の六、つまり、五掛ける六で、三十人の有権者が一致すれば、協力をすれば国会議員の三分の二が確保できる。つまり、八十一人中の三十人で三分の二は確保できる可能性があります。しかも、これは投票率が一〇〇%の場合です。六〇%ぐらいになると、もっと少ない人数で国会議員の三分の二の数を確保できるということになります。

 ですから、これは、憲法の条文だけを見るのではなくて、選挙制度も含めて全体を見ないと、果たして厳格なのか厳格でないのか、なかなか簡単には結論が出ない問題ではないかというふうに考えております。

長谷部参考人 どうもありがとうございます。

 先生御指摘のとおり、憲法九条を見ただけでは、自衛の限界というのははっきりとわからないわけです。ただ、文言を見た限りでは、たとえ自衛が認められるとしても、極めて極めて限られているに違いないことは、それは大体わかります。

 その上で、内閣法制局を中心として紡ぎ上げてきた解釈があるわけです。解釈というのは何のために存在するかというと、先生御指摘のように、文言を見ただけで、条文を見ただけではわからない、わからない場合に、解釈を通じて意味を確定していくということになります。

 従来の政府の見解というのは、我が国に対する直接の武力攻撃があった場合に、かつ、他にそれに代替する手段がない、必要性があるという場合に、必要な最小限度において武力を行使する、それが自衛のための実力の行使だということを言っていたわけでございまして、これはまことに意味は明確であるというふうに私は考えます。

 ただ、昨年七月一日の閣議決定において示されていた、限定的ながら集団的自衛権行使ができる場合があるのであるという、そういう変更がなされているわけなんですけれども、その結果、一体どこまでの武力の行使が新たに許容されることになったのか、この意味内容が、少なくとも、従来のいろいろな先生方の御議論を伺っている限りでははっきりしていない。

 文言を見ただけではわからないから、それを意味を明確にするために解釈をしているはずなんですが、解釈を変えたために意味はかえって不明確化したのではないかというふうに私は考えております。

 また、先ほどの繰り返しになりますけれども、従来の政府の見解、御指摘の憲法十三条に言及された、その基本的な論理の枠内におさまっているかといえば、私は、おさまっていないと思います。他国への攻撃に対して武力を行使するというのは、これは自衛というよりはむしろ他衛でございまして、そこまでのことを憲法が認めているのか、そういう議論を支えることは、私は、なかなか難しいのではないかというふうに考えているということでございます。

長谷部参考人 どうもありがとうございます。

 私も、先生の御指摘のとおり、一票の格差は極めて深刻な問題だと考えております。

 最高裁の判例が、一票の格差は許されないというふうに言って、根本は、有権者一人一人というのは平等な価値、平等な尊厳を持っている存在であって、その観点からして投票価値は平等にしなくてはならない、そういう要求があるという話でございます。

 かつ、これは二〇一三年であったかと思いますが、一人別枠制に関しまして、もはや合理性は失われたとした最高裁の判決がございます。その判決の中で指摘されているのは、今先生御指摘のとおり、国会議員はいずれも全国民の代表なのである、いずれかの県の利益を代表しているわけではないと。

 そういった観点からいたしますと、いずれかの一定の地域の利益を代表するために格差を正当化することは許されないのである、そういう考え方が示されておりますので、やはり参議院につきましても、必ずしも都道府県の枠にこだわる必要はないということになるであろうかと考えております。

長谷部参考人 どうもありがとうございます。

 内閣法制局を中心とする政府の憲法解釈を変更することが決して許されないのかということになりますと、私は、そうではないというふうに考えます。

 現に、政府の憲法解釈は変更された例がございます。例えば、靖国神社への公式参拝の可否の問題でありますとか、自衛官と文民条項との関係が典型的な例として知られているところでございます。

 ただ、これは先ほどの私の話と重なるところでございますけれども、昨年七月一日の、集団的自衛権も行使されることが許容される場合があり得る、あの閣議決定による政府の憲法解釈の変更は、要するに、あの閣議決定の文面自体が、基本的な論理の枠内であることと法的な安定性が保たれることを政府の憲法解釈変更の許容度を示す要件としているんですけれども、いずれの点でもやはり大いに欠陥がある。従来の政府の憲法解釈の基本的な論理の中におさまっていない。個別的な自衛権のみが許されるという、その論理によって、なぜ集団的自衛権の行使が許されるのか、その説明が十分とはとても言えないものであるというふうに考えますし、その変更の結果として、では、どこまでも武力の行使は許されることになったのか、その点も不明確でございまして、法的な安定性も保たれているとは言えないというふうに考えております。

 その点におきまして、立憲主義に対してももとるところがあるというふうに私は考えております。

長谷部参考人 どうもありがとうございます。

 大体の国には、成文の憲法はないかもしれませんが、そういう国はございますが、ただ、大部分の国はやはり成文の憲法がございます。

 ただ、成文の憲法は持っていても、先ほど私が申し上げました、世界観あるいは価値観は世の中多様なのである、それはそれぞれの人個人として選び、自由にそれを、自分の人生を生きていく、そういう考え方をとっている国と、とっていない国があります。

 とっていない国もそれなりに憲法はございまして、その憲法に基づいて政治権力が行使されているわけでございますけれども、ただ、そういった国は、先ほど私が説明した意味での立憲主義の建前はとっていないということになるだろうと思います。

長谷部参考人 これは憲法そのものをさわることには実はならないんですよ。

 私、先ほど笹田先生が御提案になりました、最高裁にかえて上告審、司法裁判所としての上告審というものを新たに設け、それと別に、憲法問題を主として扱う、そういった裁判所として最高裁の役割を限定する、これは極めて重要な問題提起でありまして、検討に値するというふうに考えております。

 私の知っている限りにおきましては、ブラジルがこういう体制をとっておりまして、司法裁判所のトップに三審裁判所、要するに第三審裁判所という上告を主に取り扱う裁判所を設け、それとは別に、最高裁判所が憲法問題を取り扱う裁判所として存在をしておりまして、外国にはそういった例があるということでございます。

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